王冠 第一部王冠
第一章
『僕は思い出さなければいけない。なぜ、今、君が隣にいないかを。』


2007年8月7日。
夏真っ盛りのその日、橘 リクは緊張に震えながら、1015と書かれたドアの前に立っていた。
腕時計の長針がまた一度、静かに傾くのを今日何度目かのため息と共に見つめる。
昼間だというのに、辺りには人の気配が全くなかった。それとも昼間のホテルはこんな物なのだろうか。
彼には基準が解らなかった。

待ち合わせ場所を間違えたのではないか、という考えが先程から何度となく彼の頭をよぎった。
いや、違う、あの時確かに彼女はこう言った。
『15時きっかりにクィーンズ・メアリー・ホテルの1015室に来て。』
そう霧島 花蓮に告げられたのが一週間前、土曜日の昼下がりのこと。
店内には、和やかな笑い声がBGMのように溢れていて、リクは早くも居心地の悪さを感じていた。
お洒落なその店は、実に彼女によく似合っていた。
鍔の大きな帽子に白いワンピース、黒いヒールに真っ赤なルージュをひいたその姿は、
まるで映画のスクリーンから出てきたように眩しかった。
対するリクはというと、ジーンズにパーカーという出で立ちで、ランチ時でなければ迷わず追い出されていたことだろう。
こんな所に来ると解っていたなら、もう少しましな恰好をしてきたのになぁと頭の中でぼやきつつ、
彼女の前の椅子に腰を下ろした。
いつだって花蓮は強引すぎる。まぁ、そこが花蓮らしいんだがと変な所で折り合いをつけると、
リクは運ばれてきた何たら挽きの珈琲を前に花蓮と初めてあった夜を思い出していた。

「私、夢追い人が好きなの。」
開口一番、放たれたその言葉と共に自分を真っ直ぐ見つめてくる視線をはぐらかしたくて、アルコールの缶を傾ける。
「夢追い人なら、ここにいる全員が当てはまるさ。」
そう返すと彼女はやっとリクから視線をはずし、前方のステージへと顔を向けた。
都内なら何軒もあるような地下のライブハウス。今もステージでは、自分の存在理由を確かめるためにか
熱いパフォーマンスが繰り広げられ、その熱気が二人の座る奥まった席にまで届いてきそうだった。
ステージからも客がいるホールからも隔離されたこの席が、彼は好きだった。
出番が終わるとここで一人、アルコールを傾けるのが、彼、橘 リクの習慣だった。
ステージ上で確かに感じた熱。適度な疲れと高揚感。
日常から切り離された瞬間から戻っていく浮遊感にも似た感覚。
友人達と一年前に始めたバンド"Kein”は、最近ようやく一定の動員を見込めるまでに成長した。
ボーカルにベース、ギターにドラムと極めてシンプルな構成ながら、各個人、特にベーシストのパフォーマンスが
派手な為か、ステージが独特だねとひやかしのような褒め言葉を頂くこともしばしば。
だが、そのお蔭で、今回のようにお店や主催者側から、ステージに出ないかと声をかけてもらえるまでになったのだから
結果オーライなのだろう。その主催者に紹介されたのが、彼女、霧島 花蓮だった。
「リク、お客さん。」
人の良さそうな髭面のマスターの後ろに無造作に立つ彼女を見た時は、正直、信じられなかった。
いや、こうして隣に座っている今も。
色とりどりの照明に映し出された彼女の横顔は、はっとするほど美しかった。
大きな瞳に彩られた長い睫毛。人形のように透き通る白い肌。うっすら上気した頬。
一つ一つを確かめるように、気が付くとリクは長いこと見つめていた。慌てて視線を手の中に握られたままの缶に向ける。
会いたいと思った人に会えるのは、一体どのぐらいの確率なのだろう。
缶に描かれたピンクの鼻の熊を見つめながら、彼は考えた。
少なくとも、会いたいと望んだ人に会えたのは、リクの人生のなかではじめてに等しい。
たとえ、それがどんな理由でも。
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