王冠王冠

焼きたてのマフィンに添えられた真っ赤な苺のジャム。ガラスがキラキラ光るボールには色とりどりのフルーツが盛られている。
リクの前のマグカップからは珈琲の香ばしい香りが、レイラの前のカップからはミルクティーの甘い香りが
朝の清々しい空気と混ざり合っていた。

「おはよう。」
川沿いのこのマンションに越してきて、約一か月。天気のいい日はこうしてベランダで景色を眺め、とりとめのない会話に
笑いながら朝食をとる。それはいつの頃からか、二人の習慣になっていた。
「リク。私、リクのバンド、聞いてみたいな。」
そんな朝食の席で唐突に発せられたレイラの思いがけない言葉に、リクはフォークを持つ手を止め、レイラの顔をみつめた。
木漏れ日に照らしだされた彼女の顔には、ホテルで出会ったあの日のような不安は微塵もも見当たらなかった。
「ほら、前に言ってたでしょ?花蓮と初めて会ったのは、ライブハウスだったって。
だから、もしかしたら、リクのバンドを聞けば何か花蓮のこと、思い出すかもしれない・・・っていうのは、後からつけた口実。
本当はね、ちょっと嫉妬しちゃったの。」
「嫉妬?誰に?」
「花蓮に。変でしょ?」そう言うと彼女は少し笑った。
「ずっと、花蓮に憧れていた。何でもできて、完璧。毎回、私に残された日記帳を読みながら、花蓮でいる日々を回想するの。
それが私の一番の楽しみだった。
花蓮になることはできない。でも今なら、私は私のやり方で世界を知ることができるかもしれない。
だから、リクのことももっと知りたい。駄目、かな?」
「駄目なんてまさか。はぁ。不意打ちだ。、、、レイラ、ありがとう。」
「なんでお礼なの?」
「うん、実を言うと、いつか、レイラに聞いてもらえたらとか思ってたんだ。でも、どうやって誘えばいいのかわからなくて。
まさか、本人から言ってもらえるなんて全然思わなかった。あぁ、なんだろ、無茶苦茶嬉しい、、、、
バイト中、顔がにやけたら絶対レイラのせいだよ。」
笑いかけると、少し恥ずかしそうにはにかみながら笑い返してくれる彼女がたまらなく愛おしかった。
愛おしいなんて感情を持ったのは、幼い頃に飼っていた飼い犬以来だ。
花蓮の時とは明らかに違うこの感情。レイラと過ごすようになって、些細なたくさんの表情や
一緒に過ごすこんな時間がリクにとって、かけがえのない大切なものとなるのに時間はかからなかった。
願わくばレイラもそう感じていてくれたら。そう都合のいいことを考えてしまう自分を彼は抑えることができなくなっていた。
朝の木漏れ日のような穏やかな日々。
レイラが笑うたびに、彼女に出会う前のあの不安と焦燥感に押し潰されそうになっていた気持ちが
解放されていくような気がした。

相変わらず、花蓮の存在は失くなったままだったが、二人の間でそのことを話題にすることは次第になくなっていった。
リクはバイトとライブに向けての練習に明け暮れ、レイラは彼がいない間、近所を散歩したり、
家中を綺麗にしたりと日々を楽しんでいた。彼女が淹れてくれた紅茶を飲みながら、今日の出来事を
楽しそうに語るレイラを見つめる時間がリクは何より大好きだった。
だから、敢えて彼女があれほど固執していた『書くこと』については、一度も触れなかった。
ここに越してきてからも、何度か原稿用紙を広げる姿を見かけた。頭を抱え、やがて諦めたようにペンを置く姿。
真っ白のままゴミ箱に積もっていく原稿用紙。本当は見兼ねて何度か口を出そうとした。
だが、結局かける言葉がみつからないまま、彼はその場を後にした。
だって、一体なんと言えばいい?
「大丈夫だよ、いつか書ける。」
あんな彼女の姿を観たら、そんな無責任な言葉なんてかけられない。
それとも、こう?
「たとえ、書けなくたって生きていけるよ。他に君が心から楽しめること、探せばいんだ。」
書くことが存在理由とまで言った彼女にそれは残酷すぎる気がして、結局、彼はどちらの言葉もかけることが出来なかった。
そして、レイラは書くことを止めた。

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